12月11日ゲスト講師 株式会社浜野製作所 浜野慶一氏
【ここまでの歩み】
●墨田区は小さい町。
・大田区は「(漢字の)かねへん」の産業が中心だが、
墨田区はいろいろな産業が分布している。
・大田区は大企業の工場の近くに小工場集積、墨田区は税収を上げるものが何もない。
企業数は減っている一方、企業規模は変わらない。小規模零細企業が大半。
●個人創業1967年、創立1978年。2代目。
・金型屋でスタート、のち部品加工も
現在は、金型加工+精密板金加工+設計開発部隊を要し、対象業界は広がっている
・板橋の町工場で働いていたが、1993年初代死去に伴い社長に
・2000年にもらい火で工場全焼
・もらい火の親会社から損害賠償金をもらう直前、その会社が倒産。
もう無理かと思ったが「まだつぶれていない」という従業員の言葉を聞き、
従業員を守る覚悟ができた。その覚悟を現在の経営理念に込めている
・2000年は取引4社だったが、現在は250~300社。
・2000年蹴飛ばし2台で操業再開。多数の金型を毎日少しずつ磨く日々。
現在、本社、第1~3工場、GarageSumida、5棟13フロア
●事業承継
・社長が完全に任せる→比較的うまくいく
社長が辞めた後も会長として君臨する、口出しする→うまくいかない
・父親が生きていれば後者だったかもしれない
・中小製造業はお金がかかる
金融機関からの借り入れ、社長個人による連帯保証…
【浜野製作所のものづくりの特徴】
●上流工程から下流工程まで一気通貫のものづくり
・下請けは量産加工が圧倒的に多い…大企業に近く位置することで安定する
海外生産への移行、地方への移行に伴い、同じように下請けも移動
・都内製造業は人件費負担大、土地代、固定資産税も大
基本賃金は地方と最大200円以上の格差
●東京は日本で一番ものづくりに適さない地域だが、視点を変えればメリットはないか?
・産学連携「HOKUSAI」早稲田理工、
「江戸っ子1号」下町企業5社・JAMSTEC・ひがしん
・よく聞かれる質問=ビジネス面
実際売れない。競合大手が存在する
・自分たちの強みはものづくり。部品加工。しかしそれだけでは生き残れない。
「強みに枝葉をつける」
・大企業の新規事業立ち上げチームとの仕事で感じたこと
=部品加工だけでは装置開発はできない。
これは経営者が現場に入って体感すべきこと
●事業転換、構造転換のために、プロダクト開発ではない仕事にもトライ。
・配財プロジェクト、
・キッザニア(自分たちで企画した。これまでの受注仕事とはちがう)
・スミファ(いろいろな大学の協力を得て進める)
【なぜガレージスミダ?】
●ものづくり企業が減っている。これからも減るのでは。
このままではものづくりの力が落ちてしまう危機感
●高度人材の集まる都市型・先進ものづくりへの挑戦
●利用者(相談者)はスタートアップベンチャーだけではない
「かたちにしたい。」という思いを持った方が集まる
・(株)ポケットチェンジ:
あまった海外通貨を電子マネーに交換。筐体設計、量産を支援
2018グッドデザイン賞受賞
・ネイチャーアーキテクツ(株):東大発ベンチャー
・エアロネクスト社:今年のCEATECの大賞、輸送用のドローン
・オリィ研究所、WHILL、チャレナジー、ホープフィールド、トライボッツ、
ブルーインダストリーズ、レゾネストetc...
●ベンチャーの支援をしながら、自分たちの持っていない技術やネットワークを得たり、
ほかにつなげたりする
●「テックプランター」(テックベンチャー向けアクセラレーションプログラム)
リバネス運営、ベンチャー、町工場、大企業、大学とのコラボレーション
★植木さんからのコメント(2018年鵜飼研究室修士卒業→浜野製作所入社)
・中小企業では社員は何でもやる(やらなくてはならない)。
新入社員にいろんなことを任せてもらえる。
キッザニア、地元の中学校で講義など。
・社長(意思決定する人)の近くで仕事ができる、
言えばやらせてもらえる、そういう雰囲気を好む人であれば中小企業は向いている。
浜野製作所ホームぺージ
https://hamano-products.co.jp/
12月14日ゲスト講師 深中メッキ工業株式会社 深田稔氏
【家業】
●3人きょうだいの末っ子、お兄さんが継ぐと思っていた。
・製菓会社の営業で半年でトレーナーを抜く、2年目で全国トップ
広報への異動が決まったタイミングでお兄さん蒸発、3か月後にお父さん他界
「まさかの坂を転げ落ちる」
●継いでから分かったこと
年商の数倍の借り入れの存在(ほかの会社の保証人になっていた)
→かつては墨田区の長者番付に載るような企業であったが破綻懸念先へ、融資受けられず
●サラリーマン時代の貯金、車も資金繰りへ、アルバイト
●信用金庫で、算盤投げつけられたことも
●そんな中で、テレビドラマで聞いた「泉の話」
・泉は水が絶えず流れているからきれい。人間も同じ。
・自分が置かれている環境を人のせい、古い機械のせいにして、自分を安全なところに置い
たまま状況を改める取り組みをしなければ、何も変わらず、心がよどんでいく
【復活に向けて】
●メッキの技術を大学、公的機関、メーカーに教えてもらい、不良率を改善
●製造業は、仕事が増えると、使う材料が増える→資金がショートしてしまった
・信用金庫に借りに行き、まだ無理、と言われたが、、、
翌日、定期を2件解約し、300万円持ってきてくれた行員がいた
(受け取らなかったが)
・「あなたの人生は自分のためでなく世の中のために使う」というメッセージでは?と
思った
●復活への経営戦略
①オンリーワンのオリジナル技術にこだわる
②加工業といえども、提案型の企業に
・違う仕様、材料の提案⇒他ができないことは深中メッキに集まる
・コピーのトナーのメッキシェア100%はなぜ
もともとは2次下請け。3次下請けの企業が錆不良を出す
謝罪に行った際、安価な仕様に対してダメだしし、
新しい仕様(自社しかできない仕様)を提案し、採用してもらった
③人材育成
④戦略と戦術
・頑張っても外的要因で仕事が減るリスクはある。
・ただし、メッキは日本製のものしかしない(輸出入はない)
・そこで、交換需要がある業種・製品(景気に関係ないもの)を探し、開拓した
【復活】
①金融機関…本店管理から支店管理に戻った
②リチウム電池のメッキを世界で初めて開発
③コピー機のトナーの部品で世界シェア100%に
④借入金を完済した
【経営者として/人としての心構え】
●良い経営者とは?
元気がある、人格者、決断力、魅力的、
満足しない(達成した瞬間に次のことを考える)、アイデアマン
●経営難から学んだこと
①人や何かのせいにしない
②決してあきらめない
③希望を持ち続ける
④自分ならではの努力と工夫をする
⑤人を大切にする 社員だけでなく
⑥物事を多方面に考える
⑦金銭は細かく 日繰りの資金繰りまで
⑧感謝の気持ちを持ち続ける
●「人にいいことをするのは素晴らしい、だまっているのはもっと素晴らしい、
忘れてしまうのはもっと素晴らしい」
「誰かに言われてやった」と思うと忘れられる
●「たらいの法則」他人への善行は自分に返ってくる
・製菓会社を辞める時、ライバルメーカーの担当者達が送別会を開いてくれた
ライバルではあったが、日頃接する中での気遣いを覚えてくれていた
●「筋肉の話」自分の筋肉以上の負荷をかけないと、鍛えられない。
心も一緒。怒らないように、心に筋肉をつけよう。そのためには、、、
・苦労すること
・身近な所から訓練する…なぜ怒ったか考えると、大体自分が原因
●「流れ星の話」(子ども電話相談で印象的だった相談)
流れ星への願いは叶う、なぜなら流れ星を見た時にすぐにお願いできるほど、
叶えたいことをいつも強く心に留めているから
●難のない人生は「無難な人生」/難のある人生は「有難い人生」
●過去は変えられないが、未来は変えられる
深中メッキ工業ホームページ
http://www.fukanaka.co.jp/Fuka_page1.html
12月18日ゲスト講師 株式会社マテリアル 細貝淳一氏
【創業まで】
●1992年創業、26歳で独立、今回登場の唯一の創業者
●過去に縛られないほうがいい。未来は自分で作っていくもの。
●自分を高めていかないと、質の高い人には出会えない。
●今(大学生)はトライ、失敗のできる貴重な時期
●中1の夢は早実の野球部だったが、、、
・次の夢は?15~18歳まで考えていた。
学歴への劣等感、同窓会にも行けない?プレッシャー
・払拭するために、20歳で1000万円貯める
時給450円、ガソリンスタンドなど20時間/日
結果的には資本金に。目標を設定してクリアをすることの大切さ学び、自信にも。
●18歳で材料屋へ。配達を担当
・加工屋は100円の材料を8時間かけて加工して10万円で売っていた
・使っているのは100万円程度の汎用機
・付加価値は材料を売ることでなく、加工して売ることだと感じた。
●社長に加工して販売することを提案するが儲かっていたため、
あえてチャレンジしようとしなかった
・「大企業が風邪をひくと中小企業は肺炎になる」というたとえ
今儲かっていてもさらに上積みする、というマインドにはなりにくい
・自身はマイナスからスタートという意識→
プラスに転じる、新しいことを生み出すことしか考えていなかった
経営者になることを選ぶ
●機械加工にこだわるわけ=日本の復興のきっかけはものづくり、徹底的にやられた
(追い込まれた)結果、踏み出せた
【経営について】
●提案されたときに、断る理由を考えるまえに、まずは成功のプロセスを考えている。
それからどうするか決める。
●独立創業は自分が自信をもって生きるため。そのために会社を強くしたい。
●未来を創造する
・携帯の中継機器を手掛けていたが、2002年ごろから少なくなる
・液晶の生産設備…競合は中台で作っていた、価格競争では勝てない
(今思えば、ここからシャープは崩れていた)
・自社の事業の柱は何にするか?
①韓国中国台湾と勝負しない市場は?…防衛(海外企業に任せることはないはず)
②TVがどんどん高解像度になってくる
…電波では限界→光ファイバーの時代がやってくると考え、市場機会を見出す
●最近の若者:1年半くらいでやめたいという…時間に縛られるのは嫌だ、競争心がない
・「かもしれないだろう」という言葉を捨ててみよう
見た目にとらわれずコミュニケーションをとってどういう人かを向き合い
信頼できる人かを見極めて、タッグを組む
●経営者としての仕事
・自分は、人を育てることはできないと思っている
・できることは、成長したいと思う環境を整えること。そのための投資をするのが役割
●中小企業の悪いところは、税金を払わないことを考えるところ
・必要なものを買えば未来に残るが、とりあえず買っても(車?服?)未来には残らない
・お金はきちっと管理できる人がお金を残せる人。
●2003年大田区優工場の審査で、鵜飼教授や技術士の先生から細かく指摘を受ける
・当時は否定から入っていたが、、、経営を見直す契機になった
・5年後の優工場審査では、一番いい賞を頂いた
●町工場との取引は不安定…上場30社とも取引、未来の面白いことにも挑戦
【下町ボブスレープロジェクト】
●大田区:もともとPRべた、どうやって世の中に出すか「大田区から世界へ」
・お金をかけずにPRするには? 世界中に知ってもらうには?
「オリンピックに出る道具」に注目していた
・炭素繊維の市場が急速に伸びている
軽くて丈夫、安全…人命にかかわるものは高速に普及する
・そんな折、大田区でボブスレーをつくらないか?という提案
初めはモータスポーツに詳しい横田さん(ナイトペイジャー)に話が来た
→プロデュースに長けた細貝さんに相談
●プロジェクトのリーダーは腹をくくること。
・1号機1800万円の試算、未来を見えないから誰も投資できない→自分で出すことにした
・2号機5000万円(2台)スポンサー集めのため、安倍さんにボブスレー乗ってもらう
●ネットの風評被害は気にしなければ何もない。自分に自信があれば何もない
●他力本願=仲間を頼る、一方で、自分でできることを1つでも増やす
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1月15日ゲスト講師 東日本金属株式会社 小林亮太氏
【入社まで】
●高卒後、飲食業→20歳で祖父に鋳物職人として弟子入り
●周囲の方からは跡継ぎとか言われていたが、継いでくれと言われたことはなかった
●祖母からの問いかけ「やりたいことがあればやればよいが、
今まで代々積み上げてきた信頼を無くしてしまうのももったいない」
【東日本金属の事業】
●工程…鋳造、加工、組立(製品化)、梱包、納品まで。
・ドア回り、窓周りのハンドルや取っ手、付随した部品の製造。
真鍮製のハンドルは国内シェア80%
・真鍮(銅と亜鉛の合金) 神社・仏閣の装飾など
加工性良く、表面処理もしやすい(メッキ、塗装、着色)
・紙図面での注文⇒職人による木型制作
・協力工場30社以上との協業
●強み=鋳物で作るうえでの作りやすさ、コスト面、強度などを考慮した製造や
素材選定。真鍮でのオーダーに対して、真鍮以外を提案することもある
・重要文化財の金物の復元作業などは、一貫生産やってきた成果。
公開できないものも含め、広く手掛けている
●なぜノウハウが生きるか?
・オリジナル(現物)があればそれで済むではない
・金属の収縮を計算(鋳物で小さく、加工・研磨でさらに小さく)して木型から作る
●20代3人、30代6人、若い職人が多い
・若いから良い、というだけではない。1人前にしないといけない
【東日本金属の歴史と自身の入社】
●1918年、小林剣二氏(もともと商売人)が小林合金鋳物工場を創業
建築金物を鋳造して納める、戦時中は航空部品も。
●1949年、2代目小林容三氏(三男)…東大合格できず、家を継ぐ
剣二氏の一番弟子の薫陶を受ける
●現社長3代目(亮太さんの父)…客先に営業として修業。
・外の世界を見て、鋳物だけではダメ、品質を向上しなくてはダメと気づく
・自社でできることを増やし、販路を広げた。協力工場も増えた
●自身も本当は客先に修業に行く予定だったが、祖父に鋳物をやるように言われる
・「亮太さんがやらないと会社から鋳物の技術がなくなる(祖業)
あと3年は体力に自信があるから自分の技術と知識を引き継ぎたい」との言葉
・亮太さんが戻る→祖父が現場に戻る、現場に、職人に口を出すことによる軋轢も
・「砂型はデリケート」砂の水分量を気にすることが必要。
職人の勘ではだめで、毎日水分を測り、感触を知る。まずは数値、データ、記録
・祖父との交換日記
●主力だった職人が突然退社し、自身が主力職人へ
・協力工場から大ベテランの入社
…トラブルがあっても耳を貸さない、変更したくない。
今は良い関係だが。初めて相談されたときに、認められた気分になった。
●弟さんは機械加工工場長
【将来に向けて】
●「鋳交ファクトリー」 切削加工設備の導入
・鋳物と新しい機械の交わる工場、人と人が交わる工場
・チャレンジを実現させてしっかり世代交代を進める
・設備導入にあたって、隣接するの工場の方がノウハウを教えてくれた
●職人が減っている⇒手に頼っていた部分を設備でもできるように今から準備する
●目指すは駆け込み寺
・金型の修正→現場への直送
・即応に対応するうちにどんどん案件増える
●「すみだの仕事」次世代の雇用
・なぜ人材採用…人手不足、今の職人が元気なうちに熟練の技術を若手に引き継ぐ
採用は亮太さんが対応(採用方法含め)
・最初の採用は女性(募集は男性)
鍛金、彫金を学ぶも、作家のもとでは生活ができない
自社は女性を受け入れる体制になかったが、近所に引っ越してきてくれた
スミファでの活躍、ワークショップを任せる
●今後の課題
・若手の雇用と育成(技術承継)、リーダー育成、鋳交ファクトリーの成功、
内製化の検討(協力工場が存続できないケース)
●祖父への思い
・祖父の作った歴史…「下請け」とは呼ばず、「協力工場」と呼ぶ
・一番大事にするもの…技術は当然、「人を大事に」経営してきた積み重ねを守る
●会社への思い
・現在、経営理念はない(今までは、カリスマで引っ張る経営)が、
もし作るならと祖父に聞いた時一晩考えての言葉は「作る事への意義を問い続ける」
★鵜飼先生のコメント
・すみだには横の連携がある、町工場は地域に支えられている
・後継者…自分の父親とは違う仲間を増やす、自分自身が教える社員を増やす必要がある
・中小企業の経営会議は家族団らんにある
・女性ではできない現場はない。芸大の生徒の6割は女性。
・料理と鋳物は似ている
東日本金属株式会社ホームページ
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